2011年7月18日月曜日

<ゲスト> 内田祥哉先生

私が設立時から常任理事をしているNPO法人「北の民家の会」の総会で内田祥哉先生に記念講演をしていただいた。先生のことは「木造建築研究フォーラム」(現木の建築フォーラム)に入っていた時から知っていた。一度、先生がヴェトナム政府から勲章をもらうということでついでにヴェトナムの木造建築を見るツアーが企画された時、それに参加したことがある。その時、現地の人たちがかぶる菅笠をかぶり痩躯健脚、ひょうひょうと歩く姿が忘れられない。


当初、今回の講演のテーマを「戦後の木造建築の変遷とこれからの木造住宅」という内容でお願いしていた。それは終戦直後の資材のない時代に多くの木造建築が建てられたにもかかわらずその後木造が否定され、高度成長時代に先進的な現代建築を建て続け現在再び環境問題から木造建築(住宅)が見直され国の政策にも取り上げられ始めたからである。このような時代の流れを実体験として経験されてきた先生にその経緯をお話していただきそれを踏まえてこれからの木造住宅の方向を語ってもらおうと思ったからだ。


しかし、先生と打ち合わせをしている中で「日本において木造建築が古代から営々と生き延びてきているのは日本の木造建築が持つフレキシビリティーが故である」と聞いて、これはおもしろそうと、今回はそのテーマでお話ししてもらうことにしたのである。

総会当日は早めに北海道に来ていただき先生がまだ見たことがないということで北の民家の会の仲間で小樽の歴史建築の第一人者の駒木さん(北海道職業能力開発大学校教授)に案内をしてもらい祝津のニシン番屋を見学した。御一緒したのは東大で先生の教え子だった新住協理事長の鎌田紀之室蘭工業大学教授。
しかし、せっかくの小樽であったが時間設定のまずさからあまりにも時間が短すぎて案内をしていただいた駒木さん、山之内さん(山之内建築研究所・代表)には本当に申し訳ないことをしてしまった。

さて、講演である。
演題は「日本建築のフレキシビリティー」。
建築のおけるフレキシビリティーとは結局のところ「使い勝手がいい」ということらしい。その核心は和小屋であると。
私が一番面白く興味をそそられたのはモジュールの話である。日本人の空間のとらえ方が畳モジュールから来るということは良くわかることであるがその寸法の精度に関しては結構曖昧であるとのこと。大工の棟梁によってあるいはその現場によって違うことがよくあるということである。そしてその曖昧さはそれでいいのだと最近考えるようになってきたと先生はおしゃっていた。

素晴らしいと思った。
畳という広さの概念があれば後はその時その時全体の調和の中で考えればそれでよいということらしい。

当社のモデルハウスを大正時代の北海道開拓農家の古民家で再生した時のことを思い出した。もう10年以上前のことであるが担当した佐藤棟梁と頭をひねったことがある。それは田の字型の続き座敷の2間(にけん)の寸法がいくら測っても二間(ふたま)とも違うのである。それもどちらも3640mmにならない。片方は3655mm、もう一方は3683mm。土台で測っても桁で測っても柱芯でこの数字。一体これは何なんだ、思った。

先生の講演を聴いてなるほどと思った。細かいことを気にしては駄目なんだ。ひとつひとつ現場で作るんだから全体が調和していればそれでいい。長い間に時間のヤスリに削られながら全体として調和してきたんだ。それが揺るぎない文化というものなのだ。
「これでいいのだ。」とバカボンのパパ的悟りが必要なのだ。何かとても良くわかるのだけれど今の私はまだまだその境地には至らない。

講演の後、鎌田先生も参加して和やかに楽しい懇親会が開かれた。内田先生の前で鎌田先生もとてもリラックスして楽しそうであった。
宴会を途中で抜けてわたしは内田先生を車で三笠のゲストハウスまでお連れした。お酒が入ってからの1時間弱の車中、雑談を交わしながらであったが先生の雰囲気は素晴らしかった。86歳、今日一日の強行スケジュールの中、運転する私に気を使って尚かつそれとは感じさせない自然なたたずまいであった。古民家再生ゲストハウスに着いてからもやっとビールにありついた私と出迎えた妻を相手に12時近くまでいろんなお話をしていただいたのである。

翌日は美唄のアルテピアッツア、当社の作業場、古材施設、結ホールなど、そして当社で施工した古い木造倉庫を再生したワイナリーもご案内した。途中、母の二畳小間のお茶室でお茶を差し上げた。(後日、母は今までいろんなお客様を接待したけれど内田先生は違っていたね、と述懐していた。)

今回、内田先生に北海道まで来ていただき講演を聴かせていただいたが講演もさることながら私はとてもよい経験をさせてもらったと思う。
それは86歳にして現役、現在進行形の思想とその自然体を間近に見させていただいたからである。
得難い経験であった。



2011年6月10日金曜日

ブログ再開 『美瑛の丘で考えたこと』

ホームページのリニューアルを機に久しぶりにブログの更新をと思い、さて何にを書こうかと考えました。
新しい段階に入った長期優良住宅の取り組み、若手大工の日々の仕事状況、初夏に向かって毎日気持ちよく変化していく会社構内のこと、建築と農業の接点を模索して始め3年目になる畑のことなど発信すべきことはいろいろあります。

ま、継続を目指して気張らずにということで再開にあたってこの6月28日に発売される北海道の住宅雑誌「リプラン」のために書いた文章を先に載せようと思います。
これは私たちの家作りの考え方と基本的なところで同じ方向を持つ札幌の設計事務所、(株)フーム空間計画工房代表の宮島豊氏との企画もので「住まい考」宮島豊×武部豊樹という形で掲載されます。
09年から取り組んだ美瑛の森に建築した建物について書いたものです。
(詳しくは当社HPの工事レポートを)
雑誌の方には宮島氏の文章も掲載されますし建物や風景の美しい写真も載りますのでぜひお買い上げの上、見ていただければと思います。

『美瑛の丘で考えたこと』

今回、美瑛の仕事をいただいたオーナーの方は私と同姓です。東京から北海道に居を構えた訳ですが元々は島根県の出身でお父上は島根にまだ生まれ育った古民家をお持ちとの事。私の祖父は明治の末期に石川県能登半島から北海道に渡り、農業のかたわら冬山造材に従事し戦後、父と共に製材工場を始めました。
現在、当社では北海道開拓期の古民家の再生を手がけていますのでお話をいただいた時には出自を含めたお互いの因縁を感じさせられました。

さて、設計者とオーナーの打ち合せの課程で道産材、手づくり、大工がキーワードとして語られました。
家づくりは料理に似ています。地域で採れた良質な素材(道産材)を使って腕の良い料理人(大工)がそれに合った料理方法(工法)でつくる。全国一律どこで食べても同じ味の食物が大量に作られるファーストフードに対して語られるスローフードの物語。北の大地、北海道の気候風土に生きる人間にはその風土にあった家が必要であるはずです。
現在、私たちは積雪寒冷地の寒さと雪と戦ってきて得た確かな技術的成果を持っています。それは高断熱高気密住宅として実績を積み重ねてきました。これからは「小エネルギー」ではない「省エネルギー」更に「創エネルギー」から「蓄エネルギー」へと進化しようとしています。様々なエネルギーを長期にわたって最適に使かってかつ環境にやさしい家。
しかし、これらの技術的成果を一軒の家づくりの中でどう実現してくかはそこで働く一人ひとりの職人(木造建築であればそれは大工です)の技能の精度と意識の高さにかかってくるのです。

「技術」は開放的あり「技能」はそもそも閉鎖的です。技術は紙で伝える事が出来るが技能は手から手に伝わっていきます。学校教育でうまく大工を育てきれないのはそのせいではないかと思います。当社の大工の持つ名刺には「手の記憶を伝える」と書いてあります。
遥か縄文時代に遡る日本の大工の歴史、連綿と受け継がれながら洗練されてきたその技能とそれが支えた木造建築の技術体系は果たして現在の家づくりに生かされているでしょうか。大工のチカラが発揮できるような家とはどのようなものでしょうか。
伝統的大工技術を習得した大工には高い適応力があります。日本の木造建築が持つフレキシビリティーがそれを支える大工に適応力を求め続けて来たからでしょう。その適応力は現代の家づくりに不可欠のものだと私には思われます。それ故(だからこそ)日本において木造建築は何千年にわたって無駄をそぎ落とし生き続けてきたし、これからも更に古き良きものを残しながら新しくなっていくものと思っています。

時あたかも3月11日に発生した東日本大震災は戦後日本のものづくりのあり方、人々の暮らし方に大きな変革を求めているかに思われます。明治以来、悪戦苦闘しながら進化してきた北海道の家づくりも今また新たなステップへと踏み出す時がきているのではないでしょうか。
美瑛の丘で敷地内のカラマツを伐り倒しその丸太を削り梁や柱を作り、オーナー、設計者、大工が等しく語り合った家づくりの経験が、その小さな一歩になるであろう事を感じています。

戦後間のない頃、私たちの若き父や母が貧しいながらも明るく前を向いて働き始めた姿を思い描きながら、今この国の困難な時代にあっても希望をもって家づくりに励んでいきたいと思っているところです。